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歌詞&翻訳
Half of what I say is meaningless
僕が言うことの半分は意味がないことだけれど
But I say it just to reach you, Julia
君に届くよう話すよ、ジュリア
Julia, Julia
ジュリア、ジュリア
Ocean child calls me
“海の子”が僕を呼ぶ
So I sing a song of love, Julia
だから愛の歌を歌うんだ、ジュリア
Julia, seashell eyes
ジュリア、貝殻のような瞳
Windy smile calls me
風のような笑顔が僕を呼ぶ
So I sing a song of love, Julia
だから愛の歌を歌うんだ、ジュリア
Her hair of floating sky is shimmering
空に浮かぶ彼女の髪が煌めいて
Glimmering in the sun
きらきらと光ってる、太陽の中で
Julia, Julia
ジュリア、ジュリア
Morning moon, touch me
朝の月が僕にふれる
So I sing a song of love, Julia
だから愛の歌を歌うんだ、ジュリア
When I cannot sing my heart
心を歌えないときは
I can only speak my mind, Julia
頭で語るしかないんだ、ジュリア
Julia, sleeping sand
ジュリア、眠る砂
Silent cloud, touch me
静かな雲が僕にふれる
So I sing a song of love, Julia
だから愛の歌を歌うんだ、ジュリア
Hmm hmm hmm
ふーん、ふん、ふん
Calls me
僕に呼びかけてくる
So I sing a song of love for Julia
だからジュリアに愛の歌を歌うんだ
Julia, Julia
ジュリア、ジュリア
曲情報
「Julia」(ジュリア)は、イギリスのロックバンド、ザ・ビートルズの楽曲で、1968年の2枚組アルバム『The Beatles』(通称『ホワイト・アルバム』)に収録されている。ジョン・レノンによるソロ演奏曲で、彼の母であるジュリア・レノン(1958年没)について歌ったものである。作詞作曲はレノン=マッカートニー名義でクレジットされているが、実際にはレノンの単独作である。
この曲はアルバムのディスク1(CDではサイド2)の最後を飾る楽曲で、『ホワイト・アルバム』の中で最後に録音された楽曲でもある。1976年には、「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」のB面としてシングル化された。
作曲と録音
「Julia」はDメジャーで書かれ、ジョン・レノンがボーカルとアコースティック・ギターを担当している。1968年、インド北部のリシケーシュでマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーのもとで瞑想修行をしていた際に書かれた。レノンはここでスコットランド出身のミュージシャン、ドノヴァンから「トラヴィス・ピッキング」と呼ばれるフィンガーピッキング奏法を学び、この曲に取り入れている。
ドノヴァンによれば、レノンは「母親についての曲を書きたい」と語り、「子ども時代に母と過ごせなかった思いを歌にしたい」と相談されたという。レノンは「ビーチで母と手をつないで歩いているところを想像している」と語り、ドノヴァンは「Seashell eyes / windy smile(貝殻のような目、風のような微笑み)」といった歌詞作りを手伝った。
他のビートルズ・メンバーはこの曲に演奏や歌で参加しておらず、マッカートニーによる「Yesterday」などの例を除けば、ビートルズ名義の作品でレノンが完全に単独で歌い演奏した唯一の曲となっている。このバラードは『ホワイト・アルバム』のレコーディング・セッションで最後に作られた曲でもある。
歌詞と背景
「Julia」は、レノンの母・ジュリア・レノン(1914年 – 1958年)に捧げられている。ジュリアはジョンが17歳のとき、自動車事故で亡くなった。彼女はジョンの音楽的才能を見出し、最初のギターを買い与えた人物でもあるが、夫との別離後、ジョンは叔母のミミに引き取られ、ジュリアは別の家庭を築いた。距離的には近くに住んでいたが、しばらくの間ジョンと頻繁に会うことはなかった。
その後、ジョンが思春期になる頃から関係が回復し始め、異父妹のジュリア・ベアードによれば、夜になると2人でレコードを聴き、エルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」などで一緒に踊っていたという。ジョンは母の影響で音楽を愛するようになり、母はピアノやバンジョーを教えながら、彼がうまく演奏できるまで何度も練習させたという。
レノンは「母を2回失った。1回目は5歳のときに叔母に引き取られたとき。2回目は本当に亡くなったときだ」と語っている。
またこの曲には、後に妻となるオノ・ヨーコへの想いも込められており、「Oceanchild, calls me(海の子が僕を呼ぶ)」という歌詞には、ヨーコの名前(「洋子」)に由来する意味が込められている。晩年、レノンはヨーコを「マザー」と呼ぶこともあった。
「Half of what I say is meaningless, but I say it just to reach you(僕の言うことの半分は意味がない、でも君に届くように言っている)」という歌詞は、カリール・ジブランの詩集『砂と泡』(1926年)の一節「Half of what I say is meaningless, but I say it so that the other half may reach you(私が語ることの半分には意味がない。だが、もう半分があなたに届くように語っているのだ)」をわずかに変えたものである。また「When I cannot sing my heart, I can only speak my mind(心を歌えないなら、頭で語るしかない)」という部分も、同詩集の「When life does not find a singer to sing her heart she produces a philosopher to speak her mind(命がその心を歌う歌い手を見つけられないとき、命はその思いを語る哲学者を生み出す)」に由来している。